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高野山の宿坊「赤松院」に宿泊の翌日、チェックアウトをして駐車場に車を置かせてもらい、この旅の目的の奥の院に向かいました。
奥の院
その中で最も奥にある御廟では、今もお大師様が生きていて世の中の平和と人々に幸せを願い祈りづつけていると信じられています。
ここでは毎日2回〝生身供(しょうじんく)〟という儀式が行われ、お大師様に食事を届けています。
今年はお大師様生誕1250年で、TVで高野山の特集が組まれることが多かったからご存じの方も多いでしょう。
▼左に写っている清浄心院は赤松院の隣のお寺さんで、夜は派手にライトアップしていました(*‘ω‘ *)
ここから奥の院入り口まで歩いておよそ1~2分です。
奥の院 一の橋
一の橋にはバス停と駐車場があるので、車でここまで来ることができます。
ただし、駐車場は有料です。
▼右側には宿坊協会の案内所とトイレがあるのでここで済ませおくといいですよ。
ここから1.9kmの御廟の手前までトイレはありません。
まっすぐ向かえばそんなに時間はかかりませんが、あちこち寄り道しますからね(笑)
▼この写真を撮影したのが朝8時17分25秒。
写っている人影は娘です。
人は少なく、歩いているのは欧米人ばかり。
中には参拝や観光といよりはウオーキングという恰好の外国人も。
訪れたことがある人は分かると思いますが、墓地とはいえ清々しくて気持ちいいんですよ(*´▽`*)
▼墓地ですが鳥居もたくさんありました。
戦国武将が眠る奥の院
一の橋から御廟までの参道には、多くの戦国大名の墓が立ち並んでいます。
戦国大名と荘園
荘園は税金を免除されていたので、ここで獲れた作物などは全て寺院の収入源になっていました。
しかし、戦国時代には荘園(寺院の領地)をめぐって、戦国大名と寺院が対立することが多くありました。有名なところでは信長の比叡山焼き討ちがありますね。
高野山も広大な荘園を持っていましたから信長に目を付けれていました。
高野山は身を護るために、有力な大名と手を結んで宿坊契約を結び、大名側が今でいう檀家となったのです。
戦国武将の墓
日本の大名の約40%の墓が高野山にあるそうです。
建てられたのは戦国時代からですが、江戸時代になって徳川家康が高野山を徳川家の菩提所としてから、各地の大名が高野山に墓を建てるにようになりました。
お大師様は「われ、閉じ目ののちは兜率天に往生し、弥勒慈尊の御前に使え、五十億余年ののち、必ず慈尊とともに下生せん」と遺言を残しています。
つまり簡単にいうと、「50億年後に弥勒菩薩とともに復活して説法を聞くからね」と弟子たちに言い残したわけです。
▼薩摩・島津家墓所
前日の夜にこの鳥居の向こう側へ入ってみました。
真っ暗で何も見えず、何も写らず(^^;
▼山口・毛利家墓所
▼前田利治墓所
▼小田原・北条家墓所
▼崩れていて分からない墓所も多い。
前日の夜はここまで来て引き返しました。
御廟まであとおよそ1.5kmです。
▼薩摩・島津家 初代家久 二代光久・綱久墓所
▼紀州徳川家・八代重倫 九代治貞 十一代斉順 十二代斉彊
斜めからでも全体が収まりきれません。
「どうする家康」を見てると血の気が多いヤツと思います(笑)
つづく
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