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今回の旅行、一泊目は素泊まりなので朝食を食べに行きます。
ホテルの隣にコンビニがあるので、買ってきて部屋で食べる選択肢もありますが、旦那君は外へ行きたいと。。。。
まだ雨が降っていたので、徒歩圏内にあるスタバへ行きました
朝からケーキです^^;
朝食を済ませてから、源平合戦の最終決戦地壇ノ浦へ向かいました。
ところが……………
スタバの前にバス亭があったのでバスに乗って御裳川(みもすそがわ)へ向かったはずが、バスで4個めのバス停なのに、4カ所過ぎてもまだ御裳川に付かない。
これ、完全に乗るバスを間違えったでしょ(;'∀')
急いでバスを降りて唐戸まで引き返し、今度はしっかり行先を確認して乗りました。
時間とお金をロスしました
下関ではバスが頻繁に走ってます。
行き先はちゃんと確認しましょう(^~^;)ゞ
因みにSuica使えます。
降りる時に気づいたので使ってませんが💦
関門橋
山口県下関と北九州市門司を結ぶ、海面からの高さ61m、全長1,068mのつり橋です。
旦那君が「関門橋のライトアップはそれはそれは綺麗だよ」と言ってたので、見たかったんですけどね・・・・・。
旦那君は博多出身です
▼昨夜は暴風雨だったし、今日は朝からこんな感じですよ(・ัω・ั)
▼雨でも海水がきれい。
関門橋を渡ってみたかったけど歩行者用は海底トンネルなのでパス。
橋は見えないとつまらないからね。
みもすそがわ公園
川があるわけではありませんが、赤い欄干の橋がありました。
▼安徳帝御入水之処の石碑
今ぞ知る みもすそがわの 御ながれ 波の下にもみやこありとは
壇ノ浦で、1185年4月25日、源氏840余艘、平家500余艘で戦い、平家が滅亡しました(数は吾妻鏡から)。
清盛の妻二位尼(時子)が、わずか8歳の安徳天皇を抱きかかえて入水した場所です。
壇ノ浦古戦場
関門海峡は潮の流れの変化が激しく、潮の流れを熟知していた平家が圧倒的有利な戦況でした。
義経は敵船の舵取りを射るように命じたという説(戦いの掟破り)、
しかし平家物語では舵取りを射られた記述はなく、この時すでに源氏方は平家の船に乗り移って切りつけていたと書かれています。
さらに、阿波重能の水軍300艘が寝返ったという記述があるけど、吾妻鏡では阿波重能は捕虜になっているので、本当のところはどうなんでしょうね?
壇ノ浦にずっと行きたいと思っていて、この像が出来きたら(平成16年)さらに行きたい気持ちが大きくなって、やっと来ることが出来ました。
歴史に興味はないけどオイオイ(;''∀'')義経は好きなんです。
▼義経の八艘飛び!!
うわー、カッコイイ!!!
\(^o^)/
銅像なのに・・・・・(笑)
船から船へ飛び移っていった姿です♪
▼知盛りの碇潜(いかりかつぎ)
碇を体に巻き付けて海に体を投げ出す直前の姿・・・・・。
壇ノ浦砲台跡
1863年、長州藩が海峡を挟んで対岸に停泊していた上海行きのアメリカ商船を砲撃、横浜から長崎向かっていたフランスの通報艦を砲撃、オランダ東洋軍の軍艦にも砲撃して、死傷者をだし船体損害を与えました。
長州藩の対外国船無差別攻撃にアメリカが報復、フランスも応戦し砲台が占拠されました。
その後、高杉晋作は騎兵隊を作り砲台を修復・増強して、下関海峡を封鎖したけど、
その挑戦的な態度に、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスが下関一斉射撃を行った事で砲台は破壊され、敗北しました。
▼ペリー艦隊が来航して、初めて黒船に火に向かって吹いた、長州藩の八十斤カノン砲
▼大砲を製造していた安尾家に伝わる模型から作られたレプリカ。
▼フランス軍が戦利品として持ち帰った長州砲のレプリカ。
▼たかが大砲、、、なのに模様まで。
そのうち萩へも行ってみたいです。
▼ここには薩摩藩の大砲がありました
最後までご覧いただきありがとうございました(*^^*)