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六道珍皇寺を後にし、再びバス停清水道から市バスで三十三間堂前にて下車。
三十三間堂入口方面に歩いていくと、タクシーとバス、それに観光客の数の多い事!
昔、誰もいない静かな三十三間堂へ行った事を思いだし、随分変わったなーと思いながら入口を通り過ぎました。
すると、再びここで
息子「三十三間堂通り越したよ!?」
と。
息子「入らないの?」
べる「入らないよ」
息子「何で!?何でなの!」
べる「ごめんね~行かないのよ。今度ね」
有無を言わせず三十三間堂入口を通り越して、道路を挟んだ斜め前のお寺さんへ(^-^;)
養源院について
1594年、豊臣秀吉の側室淀君が浅井長政の21回忌に、秀吉に願って建立した寺院です。浅井長政は秀吉の命により自害した、北近江の戦国武将で淀君は長女になります。
1616年、浅井長政の三女お江が供養を営む。
1619年、落雷により焼失。
1621年、徳川秀忠が伏見城の遺構を用いて再建したのが今の本堂です。
以降、徳川家の菩提寺として2代秀忠から14代家茂まで歴代将軍の位牌を祀っています。
浅井三姉妹
戦国時代の武将浅井長政とお市(織田信長の妹)の間に生まれたの3人の娘たちは茶々・初・江です。
長女の茶々(淀君)は豊臣秀吉の側室、次女のお初は京極高次に嫁ぎ、大阪の陣の際は、姉妹が嫁いだ豊臣家と徳川家の関係を改善させる為奔走しました。
4回の落城を経験しています。
三女のお江は徳川秀忠のもとへ正室として嫁ぎ、多くの子孫を残しその血筋は明仁天皇、今上天皇、悠人親王まで続いています。
養源院の本堂には、豊臣家の桐紋、徳川家の葵門、天皇家の菊紋が並んで祀られています。
この3つの紋が一緒に並んで見られるのは、養源院だけです。
▼山門の前の道路に血天井の看板
▼山門
※画像はお借りしています
血天井
養源院の本堂の廊下の天井には伏見城の遺構が使われています。
1600年、石田光成を足止めするよう命を受けた徳川軍は、鳥井元忠を筆頭に2000の兵で伏見城に残りました。そこへ豊臣方の石田光成率いる40000の軍に攻め込まれました。
10日間の攻防で2000名の兵は380名に減り「中の御殿」で自刃、伏見城は落城しました。
その後、関ケ原の戦いが終わるまで約2か月の間、その亡骸は放置されたのです。
自刃の血がしみ込んだ床板を本堂の廊下の天井に使っているのです。
拝観
本堂の拝観はある程度の人数が集まったら開始します。
もちろん自由見学もできますが、ここは説明を聞きながらが良いでしょう。
だいたい30分くらいです。
部屋ごとにカセットテープ(今どき!)が置いてあって、説明が流れます。
最後の血天井の所は人がちゃんと説明してくれます。
「これが鳥井元忠の手、首、足、、、」というように。
2か月放置されていたので、血の跡がその形で残っているのです。
べる家が行った時は住職の奥様が説明をしてくれました。
俵屋宗達の杉戸絵と左甚五郎作の鶯張りの廊下
養源院には、伏見城から移築された12面の襖絵と、まだ無名だった頃の俵屋宗達が描いた杉戸絵8面があり、どちらも重要文化財に指定されています。
下の画像は、写真撮影は禁止なので頂いたポストカードです。
▼白象図
▼唐獅子図
▼松図(左)、波と麒麟図(右)
※画像はお借りしています
本堂の廊下は、日光東照宮の眠り猫で有名な左甚五郎が作った鶯張りの廊下です。
そぉ~と歩くと鶯が鳴いているような音がします。
侵入者除けの廊下ですね。石川五右衛門はこれでお縄になったとか。
境内
今回の京都旅行最後の訪問で、時間があまり無く忙しい拝観になってしまいました。
御朱印を頂くのを忘れました(゚д゚)!
▼境内はまったく見る時間がありませんでした(ーー;)
※画像はお借りしています
▼紅葉も綺麗そうです。
見どころ多い養源寺、是非行ってみて下さい。
アクセス
拝観時間 9:00~16:00
拝観料 大人500円
子供300円
京都駅へ戻るバスを待っている時に息子が言いました。
「平等院へ行ってみたかった」
この旅行を決めた時にちゃんと家族に聞きましたよ。
行きたい所ある?って。
次の機会には王道の観光地巡りをしましょうか(笑)。
最後までご覧いただきありがとうございました(*^^*)